はじめに
人生の前半、各国で数々の武勇伝を残したプティパ
20代には恋愛沙汰で決闘事件を起こしてしまい、フランスへ戻ることになってしまいました
『ロシアへのレース』にのる
19世紀、エドガー・ドガの絵画からもわかるように、西ヨーロッパではバレエは女性を見るための場所となり、”芸術”という域から離れつつありました
それとは反対に、西ヨーロッパに追いつくための文化振興策として国をあげてバレエに力を入れていたロシアは、ヨーロッパから優れたダンサーや振付家を積極的に呼び込み、バレエの水準を上げていました
1862年、29歳の時プティパもサンクトペテルブルグへ渡り、働くことになりました
ここから50年以上もロシアのバレエの発展に貢献していくことになります
『ファラオの娘』大成功
ロシアに渡り、しばらくはダンサーとしての仕事が中心でしたが、
『ファラオの娘』の成功を皮切りに、プティパは振付に専念するようになります
この作品は、死霊の恋 作者としても知られるテオフィル・ゴーティエの『ミイラ物語』を原作としたエキゾチックな物語です
プティパはエジプト博物館に出向き、歴代ファラオの石棺を観察し構想を練ったそう
才能にあふれる有能な仲間の存在
1869年にはついに首席メートル・ド・バレエ(首席振付家)となったプティパ
高潔で教養のあるフセヴォロジスキーが帝室劇場支配人であった期間はとても働きやすく‘’実り多き歳月”であったそうです
大きなバレエ作品を構成・演出するには、たいへんな困難がつきまとう。全体のシナリオやプランを作ればいいというものではなく、登場人物のひとりひとりについても、個別によく考えなければならない。(中略)
だが、支配人自身がフセヴォロスキーのように才能豊かで有能なアドヴァイザーであり、作曲家がチャイコフスキーのような天才的音楽家であれば、こんな仕事もまた楽しいものだ。
『マリウス・プティパ自伝』より
今ではクラシックバレエの代名詞となった『白鳥の湖』は、初演時は意外にも人々に不評でした
チャイコフスキーの音楽を尊敬していたプティパは、レフ・イワノフとともに再振付を行い成功をおさめました
この時にも、有能な支配人の影響は大きかったそう
チャイコフスキーの音楽がよくないとはとても思えません。私の見るところでは、この作品に問題があるとすれば演出か振付しかありえない。チャイコフスキーの音楽を私なりに利用して、このバレエをペテルブルグで上演することを許可してほしいのですが。
フセヴォロジスキーは大喜びでこの提案を受け入れ、私たちはさっそく作曲家とコンタクトをとった。そして当然ながら『白鳥の湖』はペテルブルグの舞台でめざましい成功をおさめたのである。
『マリウス・プティパ自伝』より
チャイコフスキーとの共鳴
特にチャイコフスキーとの関係について、20世紀前半を代表するバレリーナであるタマーラ・カルサヴィナはこのように表現しています
この偉大な作曲家との密接な接触は、プティパの舞踊に新たな展望を開きました。
音楽はバレエの単なる添え物であることをやめ、バレエにインスピレーションを与えるものとなったのです
『マリウス・プティパ自伝』より
特にローズのアダージオではプティパの振付が音楽と同じ原理で展開していることがわかりやすいそう
『眠れる森の美女』に関しては、チャイコフスキーに対してプティパが書いた音楽のプランが資料として添付されていました
それを見ていると、二人がいかに”わくわく”楽しみながらイメージを共有し、仕事を進めていたのかが想像できます
例えば、「姫を争う貴公子たち。音楽はまず彼らの嫉妬を、つぎにオーロラ姫の愛らしさを表現する」 「狂ったような旋回 毒蜘蛛に嚙まれたように」など表現豊かに指示が細かく書かれています
きっと受け取ったチャイコフスキーも腕が鳴る思いをしていたと思います
これぞ”クラシック・バレエ”をつくる
バレエ史の中では19世紀後半にロシアで発展したバレエを「クラシック・バレエ」と呼んでいます
このことからプティパはクラシックバレエの父と呼ばれています
グラン・パ・ド・ドゥ を確立
男女で踊る「アダージオ」(女性の優雅さを際立たせる効果)
↓
それぞれのソロ(それぞれのヴァリエーションで、ダイナミックさ繊細さ等を引き出す)
↓
再び男女で踊る(コーダ)(難易度の高い技を見せあい盛り上がり✨)
という形式は、プティパがこの時に確立させました
コールドバレエ の装飾的な使用
複雑なフォーメーションの群舞が特徴的なプティパの作品
彼はチェスをダンサーに見立てて配置を考えることもあったそう
ディベルティスマンを積極的に取り込む
キャラクター・ダンスを得意としていたプティパは、民族舞踊の研究を重ねたり、ストーリーとは関係のないディベルティスマン(余興) を積極的に取り込むことにより、舞台を盛り上げました
クラシックチュチュが生まれる
舞踊面を重視したプティパの影響もあり、ダンサーのテクニックはみるみる上昇していきました
この頃から、脚の動きがよく見える短い丈のチュチュが着用されるようになりました
ロマンティック・バレエも救う
プティパは、西ヨーロッパで上演されなくなりつつあったロマンティック・バレエの改訂上演も行い、帝室劇場に残しました
今日『ジゼル』や『コッペリア』『レ・シルフィード』が残っているのもプティパのおかげだそう
プティパの功績まとめ
プティパが一体何をしたのか、一言で言い表すことはとても難しいことがわかります
そんな中で、プティパの功績について タマーラ・カルサヴィナ は、このように表現しています
マリウス・プティパは、ロマンティックバレエと二十世紀初頭十年間のバレエとをつなぐハイフンのような役割を果たしました。もっとも重要なクラシック・バレエの振付家である彼は、世に蔓延する悪趣味からバレエ芸術を守り、それが西欧でこうむった衰退と同じような衰退に見舞われることをまぬがれさせたのです。
『マリウス・プティパ自伝』より
おわりに
プライベートでは9人の父であったプティパ
娘さんからの手紙により、ユーモア、愛情あふれる方だったことが伝わってきました
このような素敵な本を翻訳してくださった石井洋二郎教授にも感謝です♡
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