はじめに
あまりにもうるさい。耐えられない騒音の固まりだ。この若者は明らかに前衛グループの悪い影響を受けている。
とはいえ、怪物を音楽院に引っ張り込んでしまったのは他ならぬ自分なのだ。(中略)
十年前、遠いウクライナの田舎から出てきたプロコフィエフ少年の才能に驚嘆し「この生徒は気に入った!」と叫んで即座に入学試験に合格させたものだ、、
『プロコフィエフ 音楽はだれのために?』著:ひのまどか
ペテルブルグ音楽院の卒業試験にて、当時音楽院長であったグラズノフ、その他‶被害者”である教授たちの嘆きからこの本『プロコフィエフ 音楽はだれのために?』著:ひのまどかは始まります
プロコフィエフの音楽に関して熊川哲也さんは以前『おもちゃ箱をひっくり返したような音楽』と表現されていました
そんな不思議な魅力たっぷりの音楽を数多く世に残したプロコフィエフ(本名 セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ)とはどんな人物だったのでしょうか
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ざっくり年表
1891年 ソンツォフカ(現ウクライナ)に生まれる
1896年 5歳の時初めての作曲『インドのギャロップ』が母によって譜面へ書き起こされる
1914年 音楽院卒業 グランドピアノをかけて競う卒業試験では自作のピアノ協奏曲第1番を演奏して優勝 ディアギレフに会う
1914年 第一次世界大戦勃発
1918年 革命を逃れるためアメリカへの亡命を決意 途中2か月間日本での滞在
1921年 バレエ『道化師』、歌劇『三つのオレンジへの恋』初演。
1932年 ソ連へ帰国
1936年 『シンデレラ』『ピーターと狼』作曲
1938年 『ロミオとジュリエット』初演
1945年 『シンデレラ』初演
1953年 脳溢血により死去
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怪物と呼ばれた学生時代
プロコフィエフの作る音楽は、ペテルブルク音楽院時代から個性的なものでした
また、反抗的、喧嘩好きだった性格で学生時代は教師陣の手を焼いたそうです
しかし、卒業試験では自作の『ピアノ協奏曲第一番』を高度なテクニックで演奏し、見事「ルビンシティン賞」を受賞し、賞典グランドピアノを獲得
翌朝の新聞に大きく掲載され、名が知れ渡ることとなりました
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ディアギレフとの出会い
当時ディアギレフの天才を見つけ出す名興行主としての才能は世間を賑わせていました
そんなディアギレフとある夜会で引き合わせてもらった際、彼はディアギレフの前でピアノを演奏してみせました
この時、『ピアノ協奏曲第二番』で大胆な不協和音を鳴り響かせ、周囲にいた客からはやじと怒号が飛んだそう
しかしディアギレフは瞬時にプロコフィエフの才能を読み取り、「君はバレエを書くべきです」と述べ、劇場に来るよう伝えました
ストラヴィンスキーというライバル
プロコフィエフには唯一、常に意識しているライバル、ストラヴィンスキーがいました
ペテルブルグ出身で、一足先にディアギレフによって見出されていた彼のバレエ『ペトルーシュカ』を観た後には激しく嫉妬したそう
サラエボ事件勃発
ディアギレフに認められ意気揚々としていた頃、世の中ではサラエボ事件が勃発し、不穏な空気が漂っていました
その後第一次世界大戦へと拡大し、わずか数日で世の中が激変する様に、プロコフィエフは唖然としました
音楽のことだけを考えてきた彼は、人々が生きるのに必死で芸術に関心が向かなくなってしまった状況に苦しみました
ぼくは世の中から置いてきぼりになってしまった。音楽活動の最先端にいたのに、とつじょキャリアを断ち切られてしまった。
『プロコフィエフ 音楽はだれのために?』著:ひのまど
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偶然が重なり日本へ
ロシアに革命の嵐が吹き荒れ、国内が混乱する中、プロコフィエフはアメリカへ亡命することを決意します
その途中、旅程のハプニングから単に通過する予定だった日本で、ひと夏を過ごすことになりました
好奇心旺盛な彼は日本に大変興味を持ち、観光に徹することに決めました
そんな中、音楽評論家大田黒元雄さんに出会い、意気投合し帝国劇場でのリサイタルも開催しました
太田黒さんはプロコフィエフの音楽を『新しい自由な表現を求める心と、純粋な美を追求する心の交錯から生まれた音楽』と評しています
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祖国へ舞い戻る
アメリカ、パリでの亡命生活を経て、1932年には『芸術家は祖国を持たなくてはならない』という思いで祖国へ戻ることにしました
しかしその頃ロシア帝国はソ連となり、社会主義国家建設の裏で、スターリンの独裁と恐怖政治の中で人々は生活していました
何も知らずに帰国したプロコフィエフは、頭上に暗雲が垂れ込めていくのを感じましたが、徐々に自身の身の処し方を理解しながら作曲活動を続けていきます
バレエ音楽『シンデレラ』を含む多くの曲で『スターリン賞』などの賞を受賞しました
ジダーノフ批判に苦しむ
生まれ変わっていく社会に適応しながら作曲活動をしていたプロコフィエフでしたが、1948年のはじめ、ジダーノフを中心とする政治家たちによる作曲家らを非難する決議(ジダーノフ批判)が行われ、プロコフィエフは「形式主義」の罪の対象となってしまい、多くの曲が演奏が禁止されてしまいました
そんな中でも『ロミオとジュリエット』は人々の間であまりに人気が高かったため、政府も批判することができなかったそう
最期
徐々に精神的余裕を取り戻していったプロコフィエフは、バレエ『石の花』の創作を進めていました
そんな『石の花』のボリショイ劇場初演の決定が告げられ、幸せな気分での帰宅直後、プロコフィエフは脳溢血により息を引き取りました
奇しくも同じ日にスターリンンも同じく脳溢血で急死、、
人々は混乱し、町中の花という花がスターリンのために買い占められるような状況の中で
プロコフィエフの死は何日間も報道されることはなく、数少ない友人のみで葬儀が行われたそうです
終わりに
若いころは破天荒だったプロコフィエフ
社会の変化によって自分の作品の評価が変わるという難しい時代の中で、順応しながらも音楽に対する情熱を絶やすことがなかった彼の人生が見えてきました
『プロコフィエフ 音楽はだれのために』の著者ひのまどかさんの言葉が印象的だったのでご紹介します
プロコフィエフの創造力は、国家権力に痛めつけられた後も、少しも損なわれることはなかった。
国家が崩壊し、独裁者が消えた後に残ったのは、彼の音楽の方だ。
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