人物について観る知るバレエ

【繊細なガラスのハート】チャイコフスキーの光と影【人生年表】

人物について

はじめに

裕福な家庭に生まれ、たくさんの名曲を世に出したチャイコフスキー

彼の人生は、輝かしい限りのように見えますが、繊細な心ゆえに苦悩の絶えない人生だったようです

彼自身について知ることで、きっと音楽への味わいも深くなると思います

ぜひ、コーヒー片手に彼の人生を追いかけてみてください♡

ざっくり年表

1840年 鉱山で政府の監督官を務める父のもとに生まれる(ロシア ヴォトキンスク)

1850年(10歳) ペテルブルクの法律学校に入学

1854年(14歳) 母親がコレラで死去

1859年(19歳) 法律学校卒業とともに法務省に就職

1862年(22歳) ペテルブルク音楽院に、第一期生として入学 翌年法務省を辞職し、本格的に音楽家への道を目指す

1866年(26歳) ペテルブルグ音楽院卒業 モスクワ音楽教室の教師として働きながら作曲

1875年(35歳) 『ピアノ協奏曲第一番』アメリカでの初演大成功

1876年(36歳) バレエ音楽『白鳥の湖』完成 

フォン・メック夫人との文通開始

1877年(37歳) アントニーナと結婚 

1889年(49歳) バレエ音楽『眠れる森の美女』完成

1891年(51歳) 妹サーシャが死去

1892年(52歳) ペテルブルグで『くるみ割り人形』初演

1893年(53歳) 10月26日 『交響曲第六番《悲愴》』がチャイコフスキー自身の指揮により初演される

11月6日 弟モデストの家で死去

人生に影響を与えた5人の女性

お母様

自身も繊細で傷つきやすかったお母様は、チャイコフスキーの理解者でしたが彼が14歳の時に亡くなってしまいました

ピアノと歌が上手な教養ある女性だったそう

妹のサーシャ

2歳上の兄、2歳下の妹、4歳下の弟、10歳下の双子の弟、母親違いの姉と暮らし、兄弟仲の良かったチャイコフスキー一家でしたが、2歳下の妹サーシャとは特に気が合い、心の拠り所としていました

サーシャの結婚後もよく家を訪れ、甥や姪を可愛がっていました

フォン・メック夫人

早くからチャイコフスキーの才能に惚れこんだ裕福なフォン・メック夫人は、14年間の文通を通して、彼を精神的・経済的に支えました

理由がわからずじまいの、金銭的援助の打ち切りと共に通達された、急な”友情”の打ち切りにはひどく傷付きました

デジレ・アルトー

彼女はチャイコフスキーが生涯でただ一人本当に愛し、結婚を願った有名なソプラノ歌手でしたが、婚約を破棄されてしまいました

アントニーナ・ミリューコバ

チャイコフスキーは同性愛者でしたが、19世紀のヨーロッパではまだ世間の理解が無く、いつも罪悪感を抱いていました

熱烈なファンであるという女性アントニーナ・ミリューコバと、恋愛感情無しに無理矢理結婚することで”治癒”させようとしましたが、お互いに深く傷つく結果となってしまいました

結婚式が終わった瞬間、気が付きました。妻とふたりきりになり、わたしたちの運命が結ばれてしまったのかと思ったとき、突然、自分が妻に対してごく普通の親しみすら覚えておらず、妻を見るのも嫌だと思っていることに、気がついたのです

『チャイコフスキー』フォン・メック夫人にあてた手紙より

安定した仕事からの転職

当時ロシアで安定した地位である官吏の仕事は、安全確実な人生が保証されていました

その中で音楽家への道を新たに志し、昼間仕事をしながら夜間学校に通い始めたチャイコフスキー

その才能が開花し、世間に認められるまでは常に自身の才能将来に対する不安が付きまとっていました

ロシア音楽界の発展へ

当時ロシアは、産業革命で変わりつつある西欧諸国に対して、文化的に遅れをとっていました

そんな中で西ヨーロッパを旅し『ロシアをヨーロッパの音楽地図に加えよう』という情熱に燃えたエレーナ・パーブロブナ大公夫人によりロシア音楽協会が設立されました

そこに開校されたペテルブルク音楽院で学び始めたチャイコフスキーは、ロシア祖国で音楽教育を受けた、第一期卒業生であり作曲家となりました

評価が遅れたバレエ音楽

今ではバレエ音楽としても有名な彼の作品ですが、その才能が評価されたのは、亡くなった後でした

当時バレエの音楽は”添え物”とみなされていたため、「難しすぎる、凝りすぎている」と低く評価されていたのでした

『くるみ割り人形』に込めた想い

バレエ音楽『くるみ割り人形』の作品を手掛けている途中で、最愛の妹の訃報を受け取りました

夢の世界、可愛いクララに、いたずらっ子のフリッツ、そこへ現れるドロッセルマイヤーおじさん


どんな想いでこの作品を作ったのでしょうか

クリスマスの温かいリビングでの光景がより輝いて見えてきます

チャイコフスキーは、大人になってからも、家族の愛情に守られていたころをなつかしみ、うつうつと時を過ごすことがよくあった

年をとればとるほど、子ども時代の思い出は、いっそう輝いて見えた。

ときには、あの頃に戻りたいとさえ思うのだった

『チャイコフスキー』著マイケル・ポラード

最後の曲となった『交響曲第六番 ~悲愴~』

今でも感動、癒しを与え続けている『交響曲第6番 ~悲愴~


自らこの曲の指揮をとった初演後9日後、チャイコフスキーは亡くなってしまいます


チャイコフスキーの死については、今でも人々の様々な意見や憶測が飛び交っていますが

確かなのは、チャイコフスキーが魂を注ぎ込み作りあげた作品だということ

おわりに

繊細さん、同性愛さん、引きこもりさん、心の不調、、、たくさんの”個性に”ついても理解が深まりつつある今、チャイコフスキーがこの時代に生まれていたらもっと自由に生きることができたのかな

心穏やかに長生きが出来たらどんな音楽が生まれただろうかと思います

波瀾万丈なチャイコフスキーの人生
一つ一つの曲と彼自身の人生を照らし合わせて味わうと、より深みが増しますね

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